ゴミバコ

本や音楽のレビューがあるかもしれません。別に通とかじゃないです。

聲の形(映画)①【ネタバレ注意】

激しくネタバレ注意です

「原作見た人からすると物足りない!」という声を聞きつつも、「いうてだろwww」と思っていました。ごめんなさい。物足りないとかいうレベルじゃありませんでした。以下、ネタバレと批判?です。すみません。本当に何様って感じですが、ショックだったので。あくまで僕の感想です。間違っているところ多々あると思います。

まず全7巻ある漫画を一本の映画にするのは不可能です。だらだら続いていた漫画ならまだしも、最初から7巻までと決まっていた作品らしいので、原作は1コマ1コマ、一字一句無駄なところはありません。やるなら連続アニメにするとか、映画も全編後編にすべきだったのでは?

一番ショックが出かかったのが、筆談ノートの扱いを原作と変えてしまったことです。

あのノートは、将也によって捨てられた日、硝子は池に入ってまで拾い直しますが、結局自虐的な笑みを浮かべてもう一度、池の中に戻してしまいます。これは硝子が、自分は人に迷惑をかけてでも、自分の言葉を伝えて他者と交わっていきたいと思っていたが、それはもうやめよう、という描写だったのではないでしょうか。まずこの描写が無かった、と思う。

その日硝子は家に帰って、結絃に死にたいと伝えます。それから結絃は硝子に死んでほしくないと思い、あらゆる死骸を撮り続けます。そして「ちゃんと言葉で言えばよかった?」とあのシーンにつながる。このつながりもはっきりしなかった。

さらに将也と硝子の再開の日、原作では渡されたノートを見ながら硝子は涙を流しています。その涙は、単につらかった日を思い出してでしょうか。それてもかつての自分は自分の思いを伝えようとこんなに頑張っていたのか、という気持ちからでしょうか。将也に拾ってもらったことに対して?原作ではたった一コマの描写でしたが、めちゃくちゃ重要だったと思います。映画では泣いてなかった…。

そして、そのまま橋に行って、硝子母にノートを捨てられてしまう。それを拾おうと硝子池にドボン。将也もドボン。

これって母親に捨てさせることに意味があったと思うんです。母親は母親なりに、自分の娘に過去の嫌な記憶は忘れて前に進みなさい、という形の愛情。でも硝子は自分の過去をもう一度見つめて、もう一度頑張ってみようという願いをこめて拾いに行く。それを手助けしようとする将也。この後将也は硝子母に一発殴られますが、硝子母が将也を許すきっかけになったのでは?なんと映画ではノートを落とすのは将也…全く意味が変わると思うのですが…。

将也に拾ってもらったノートを抱きしめて、「一度あきらめたけど、あなたが拾ってくれたから。またね」という硝子の手話。これで将也は、自殺することをやめるはずなのです。でも映画ではこの言葉も出てこないし、ノートを拾いなおしてあげるのは硝子と再会し、次にまた会ってから。つまり将也が自殺をやめたきっかけは、ただ硝子に再会したってだけ。映画でも将也が自殺しようとしていた設定でしたが、その覚悟が薄まってしまいました。

ノートに関連するシーンだけでもっといっぱいありますが、これくらいに。正直このシーンが大きく変わっていたので、映画サイドが原作から感じていることと僕が感じていることが違い過ぎて、もう観たくないと思ってしまいました。この設定ってほぼほぼこの漫画の骨じゃないの??

なんか長くなったので今回はここまで。